ロング・グッドバイ

レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を読んだ。ミステリ小説でありながら、社会の正と負の部分を鋭く抉り出していて、社会派ミステリとしも読める。それ以外にも、この小説では主人公の心理描写はほとんど書かれていない。また、主人公がどのような人物であり、どのような経歴を持ってるのかも、一切描かれていない。描かれているのは、主人公のフィリップ・マーロウが見た社会と現象だけである。もしくは、フィリップ・マーロウの目を通した社会の認識、見え方を提示してるだけにとどまっている。彼が何を考えて社会と向き合い、またその行動の倫理や道徳たるものは一切描かれていないが、彼の行動には一貫したものがある。それは何かはわからないが、無意識的に彼を動かさないわけにはいかない何かがある、というそれだけしかわからない。多くの小説に(特に近代小説に)は、事細かに心理描写やその人物の経歴が描かれていて、また、その帰結としてある行動が取られるということが小説で書かれる。つまり、Aという原因があったからBという結果を引き起こした、というように。しかしながら、このロング・グッドバイに関しては、Aという原因は描かれていない。結果としてのBという行為だけが描かれ、また、その行為に一貫したものがあり、そのおかけで、Aというものが薄々と分かってくる、そういう手法が取られている。Aという行為、Bという行為、Cという行為、それらの理由は提示されないが、一貫した何かがある、連関性のようなものがある、そういう手法を元に書かれている。また、キャッチャー・イン・ザ・ライの小説に似ているような気がした(個人的に)。

 

キャッチャー・イン・ザ・ライもまた、17歳のホールデンというフィルターを通した世界の認識・見え方だけを提示しているだけで、何が彼をそうさせたのかは描かれていない。あるのは、社会と現象だけである。ロング・グッドバイフィリップ・マーロウは、社会と対峙し、キャッチャー・イン・ザ・ライのホールデンは、社会から逃げるという違いはあるが、小説の手法は同じであるような気がする(確信は持てないけど)。

 

まとまらないけど、まあ、自我を揺さぶる直接の理由を説明しなくとも、行為だけを書いて行けば、自我に何が起こったのか、理由が薄々と分かってくる、そういう小説の手法があるのだと感動した、それだけ。社会とはこうするべきである、こう向き合うべきである、それを求めるなら小説は向かない。あまりにも効率が悪すぎるし、それは、どっかの哲学書か学術書や自己啓発書やらに無駄なく、直接的に提示されてる。小説というのは、たった一つの事を伝えるために500ページもの紙を使って書いてるから、合理的な人には本当に向かない。水で1万倍に薄められた絵の具の原色を辿っていくような作業なんだよ。ただ、その一つ一つのヒントや仄めかしは「今現在」役に立つかもしれないし、「将来」役に立つものかもしれない、あるいは「過去」を鮮明にさせてくれるものかもしれない、無駄な作業のあとにそういう小さな発見をすることこそ、僕にとっての小説の醍醐味なんだけどね。

 

 ロング・グッドバイ村上春樹訳と清水俊二訳とかがある。

村上春樹訳の方しか読んでいないので、今度、清水訳の本も読んで見よう。

 

長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1))
 

 

3冊の「ロング・グッドバイ」を読む―レイモンド・チャンドラー、清水俊二、村上春樹― (ソリックブックス)

3冊の「ロング・グッドバイ」を読む―レイモンド・チャンドラー、清水俊二、村上春樹― (ソリックブックス)

  • 作者: 松原元信
  • 出版社/メーカー: ソリック
  • 発売日: 2010/10/16
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • 購入: 3人 クリック: 8回
  • この商品を含むブログを見る
 

 3冊のロング・グッドバイを読むも面白そう。訳者によって翻訳も違うだろうし。