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死と生について

一昨日、一頭の牛が死んだ。
600キロもある大型の動物が、マイクロレベルのウイルスに敗れたのである。

最初、その牛の死がどうも受け入れられなかった。体はまるで生きているように綺麗で、外傷も無かった。

ただ眠っているだけではないか?と思うこともあった。頭や体を叩けば、深い眠りから覚めて起き上がるだろうと、そんな期待もあった。

でも、死んでいた。何をどうしようと生き返らなかった。頭を殴ろうと、耳をいじろうと、体を蹴飛ばそうと、ビクともしなかった。死んだのだ。あの大きな動物が死んだのだ。瞳の奥には、深い虚無があった。

死んだらどうなるのだろうと僕は牛を眺めながら考える。いや、生きているというのはどういう状態なのだろうか、と。考えてみたけども良く分からなかった。圧倒的な死という存在感と現実感だけが牛の周りを覆い、重たい空気が取り囲んでいた。まるでそこだけ別次元の空間のようであり、虚無の重みが何倍ものしかかっているように感じる。

牛は死んだ。

昨日、一頭の牛が産まれた。
母親の牛が重くて低い鳴き声をあげ、牛舎に響きわたる。力んでも力んでも子牛の足しか出てこない。自然分娩は不可能だった。だから、子牛の足に紐を縛りつけ、引っ張り出した。牛の力みと引きつけのタイミングを合わせる。一回、二回、三回と回数をこなすうち牛が母親の体から姿を現し始めた。母親の苦痛の鳴き声。

5回くらい引っ張ったあと、牛はようやく産まれた。なんだかよく分からないといった顔をして、頭をあちこちに降る。
冗談じゃない、なんてここは寒いんだ、とでもいったように体を震わせながら。

母親の体温38℃、外の気温マイナス2℃。

産まれたばかりの牛の先には一昨日死んだばかりの牛が横たわっていた。死んで、産まれて、死んで、産まれる。

死んだ後の世界について考える。
死んでもなお、世界は続いていて存在しているのだろうか?と。

分からない。

昨日、牛を牛舎の外に放り出した。放り出すという表現はあまり良くないかもしれない。牛舎にそのまま残して置くという手もあったのだが、カラスがいたずらをするので、外に出したのだった。昨日、牛舎に入ると死体の周りにカラスが三羽いて、肉を貪っていた。目がくり抜かれ、皮膚があちこち剥がれ、赤みかかった肉が露出していた。

あまりにも無惨だったので、雪の中に埋めてやった。夜の作業が終わってから、その死んだ牛の所まで行くと、今度はキツネが雪を掘り返し、肉を食べていた。

3匹か4匹が牛の周りに集まり、おのおの好きな部位を食べていた。牛の死体はまるで被弾したかのように体のところどころに黒い穴が空いていた。

しょうがないのだ。
前に弱った人間の子どもの後ろに鳥が死ぬのをじっと待っていた写真があった。今か今かと、その鳥は子どもが死ぬのを待っていた。骨だけになった体とその後ろに控える鳥。

生と死があちこちに漂っていて、あっちでは死に、こっちでは何かが生まれ、どこかで何かが食われ、何かが食っている。

自然ってそういうもんなんだろう、と思う。動物であろうと、人間であろうとも。