朝から予定が狂った時は、なにをやっても無駄だ。

今日は、ほとほとに疲れた一日だった。全ての物事が自分とは関係のないところで、理不尽にも過ぎていった。朝目覚めた時、時計を確認すると9時37分だった。僕は今日、8時に起きる予定だったのだ。そのために、昨日の夜から色々な準備を済ませ、明日の生活がスムーズに行くように頭の中でイメージをしていた。8時に起きて朝食を取り、シャワーを浴びて、歯磨きをし、服に着替えて少し休む。コーヒーをカップに注ぎ、新聞に目を通したり、あるいはテレビをつけてニュースでも見てくつろぐ。そして、電車の時刻が近づいてきたら全ての準備を整えて、家を出て、9時30分の電車に乗る。そういう朝のリズムを僕は昨日の夜のうちに何度も何度もイメージし、全てが予定通りに事が運ぶようにと準備をしていた。

時計を確認した後、僕は一瞬、時計が狂っているのではないかと思ったが、9時37分という時刻は紛れもない事実だった。どう頭を捻ってみても9時37分という時刻は変わらなかったし、もう既に僕が時計とにらみ合いをしている間にも一秒、また一秒と時間は過ぎていった。携帯を確認すると電話の通知が3件も入っていた。

僕は電話をかけた。

「ごめん、さっき起きたばかりで。その、今日、9時30分の電車に乗る事になっていたはずだけど、もう乗ったかな?乗っていないのなら、次の電車が来たら先に乗って。僕は後で行くから」と言うと、友人はとても小さな声で「集合時間に来なかったから、先に乗っちゃったよ。今は電車の中だから、切るよ」と言って電話を切った。

僕はすぐに洋服を着替え、歯磨きをした。髪はぼさぼさで、顔は浮腫んでいる。朝食も取らずに家を出た。駅まで自転車で走っている間、僕はどうしてこのようになってしまったんだと考えた。昨日の夜にイメージした今日の生活が何一つ出来なかったことに腹も立てた。自分に対する怒りをどこにもぶつけることさえ出来ない。なにせ、全ての元凶は僕が招いてしまったことなのだから。それを誰かに(親にだって)ぶつけることはあまりにも理不尽だ。自分が犯した行動は自分で責任を持たなければならない。

駅に着くまでの間、僕は2度信号で足止めをくらうことになった。その間中、予定時刻の電車に乗れなかったばかりか、こうして足止めを食らっている間にも次の電車が発車してしまう事に焦りを覚えた。このまま信号を無視して渡ってしまおうかとも思ったが、あいにく今日は休日で車の通りが多かったのと、周囲の目が憚れたのでやめた。

やっと信号が青になり、自転車をしばらく漕ぎ、駐輪場に止め、小走りで駅に向った。僕が走っているその先で、次の電車が駅のフォームに入っていった。駅に向かっている人の中には、何人か小走りになったものがいたが、多くは次の電車に乗るんだとばかりにゆっくりと歩いていた。駅に向って走っている間、「今頃、僕もああいう風にゆっくりと余裕を持って歩いたいたはずだったのに」と腹を立てた。

改札口が近づいてきたので、僕は鞄から財布を取り出そうとした。鞄の中を手探っていたのだけど、財布らしい形のものは何一つなかった。ズボンやコートのポケットも全て確認してみたけど、財布はどこにも無かった。落としたか、忘れたかのどちらかだった。いずれにせよ、この電車に乗る事は出来ないと諦め、足を止めた。電車は客を乗せ、目の前を走り去って行った。駅のフォームはしばらく人が少なかったが、エスカレータと階段を見ると次の電車に乗ろうと人々が降りてきていた。

僕は駅を振り返り、家に戻ることにした。大急ぎで家に帰って、自分の部屋に入り、財布を探したけど、どこにも無かった。リビングに行くと、そこで両親が食事を取っていた。

「慌ててどうしたんだ?」と父親が、腹立たしげにこう聞いてきた。

朝起きれなかったことや財布がどこかに行ってしまったことや、予定が予定通りに進まないことに腹を立てていて父に答える心の余裕は無かった。

「おい、どうしたんだよ?」と父がなんの事情も知らずにもう一度聞いてきたので、「財布を忘れた」と僕は努めて冷静に、感情を押し殺して言った。

「なんで、お前は昨日のうちから準備しておかないんだ」と母さんが隣でボソッと言った。僕はそれに腹を立てそうになったが、ここで怒り散らしていては両親に対して理不尽だと思い、黙った。黙って僕は財布を探した。

「なんで、お前は昨日のうちから準備しておかないんだよ。昨日のうちからキチンと準備しておけば、こうはならなかっただろうに」と母は、はっきりと僕に聞こえる声でもう一度こう言った。確かにその通りだし、反論する余地もない。言っていることは至極まともな事なのに、僕の朝からのこの状況とで、かなり頭に来ていた。

 

リビングを出て、僕はもう一度部屋に戻って財布を探した。どこにも無かった。

僕はもう一度、鞄の中を調べてみた。調べてみたけど入っていなかった。コートのポケットを調べると、そこに、ちゃんと財布は入っていた。胸の当たりにある普段使わないようなポケットにちゃんと財布は入ってあった。

「どうしてこんな場所のポケットに財布が入っているんだ!」と僕は怒りを押し殺してボソッと言った。もはや感情が制御出来なくなりそうだった。

もう何をしても今日は失敗するぞと、僕は思い、狂った予定をなんとか自分のもので修復しようとコーヒーを飲むことにした。リビングに戻ると、父親がこちらをちらと睨み「財布はあったのか?」と腹立たしく聞いてきた。母親はその隣で「だから、昨日のうちから準備しておかないとこうなっちゃうんだよ」と言った。僕は黙ってそれを聞き、コーヒーを淹れて一口飲んだ。返事はしなかった。

 

返事をしないことが両親の癪に障ったようだった。

「おい、さっきから聞いてるだろ。財布はあったのか?」と父はさらに苛々した口調で聞き、「だから、昨日のうちから準備を....」と母は同じことを繰り返した。僕の心の奥底からふつふつと沸き立っている怒りが爆発しそうだった。僕はつとめて冷静さを装い、「財布はあったよ」と答えた。それを聞くと母は「だから、昨日のうちから準備を...」と同じことをまた繰り返した。ほとんど飲んでいないコーヒーを流しに捨て、僕はリビングから出ようとした。

「で....」と父親が何かを発した。

「で...ご飯食べたのか?」と父は僕に聞いた。

「いや、食べてない。食べれない。時間がない」と僕は答えた。

「味噌汁と漬物があるぞ食べないか?」と聞いた。今度は父は明らかに苛立っていた。

「いや、時間がない」と答えて僕はリビングのドアを閉めた。

遠くの方から「だから、昨日のうちから....」という母の会話が聞こえた。

靴を履き、ドアを開けて外に出ようとした時、父が後ろに立っているのに気が付いた。

「ご飯いらないのか?」と、父は完全にキレていた。なぜキレているのか分からないが、「ご飯」という言葉に今日の理不尽さが凝縮されているかのようで僕の怒りは最高潮に達してしまった。

「時間が僕には無いんだ!さっきから言っているだろ!何度も、何度も、同じことばかり言って、分かってるんだよ、言わなくても自分でも十分に分かっているんだよ。今日の予定がすべて狂い始めようとしてるってことくらい!僕には僕の事情があるんだ、放って置いてくれ!」と怒鳴り、ドアを勢い良く閉めた。

 

バンッ。

僕は家を出てから怒鳴ったことを後悔した。なにも、世界中で僕1人だけがなにか問題を抱えているというわけではないのだ。