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卒論どうすっか、逃げ出すか、はは。

日記

文化的雪かき:卒論研究の日記

 

大学4年生になって、ひしひしと締切が迫ってきているものがある。それは学期末のレポートではなく、卒論である。ああ、卒論...。所詮、文系学部の2流大学の学生が書く論文なんてたかが知れている。少々、論理的に破綻していたとしても大目に見て貰えるだろう(見てください)。小保方さんのようにねつ造したり改ざんしたり画像を切り貼りしたり、研究ノートが2冊だったりそういうことはしないようにしたい。あれはまあ、「ああいう風にはなりたくないよな」という一種の反面教師として崇めさせてください。

 

さて、僕はなにを研究するのか。テーマすら決まっていない状態である。やる気なし。この時期に、テーマすら決まってない人間なんていないと思うが、ここにしっかりといる。膨大な先行研究のリストを3年生のうちに作っておいて、4年生になり本格的に読み込み、8月くらいから執筆を始めるという僕のプランもことごとく崩れていった。なにせ、テーマが決まらないから資料集めすらしていない。論文の7割は資料集め、2割は読み込み、1割が書くという構成になっているのだが、7割をやっていない。

 

大学1年生の頃から僕は貧困をテーマにやってきた。特に子どもの貧困を専門にし、社会保障の面から見ていった。児童手当や児童扶養手当就学援助制度、その他うんぬん。親の貧困と子どもの貧困は直結し、連鎖する。それは、日本の教育制度が無償とは程遠いところにある自己負担でなりたっているからである云々。あるいは、格差論的に見ていくという手もあった。あるいは、アメリカのヘッドスクールのように社会政策論的に見ていくというのもあった。しかし、どれもやってみたけど駄目だった。別に関心が無いわけでも、子どもの貧困に胸を痛めていないわけでもない。逆に、貧困の実態が分かるにつれ、不条理な運命にさらされている人達に深く同情せずにはいられなかった。

「そうか、僕はたまたま運が良かっただけなんだ。アフリカではなく日本で生まれた。それは、たまたま運が良かった。たまたま両親の収入がそこそこあり、大学にまで行けた。それもたまたま運が良かっただけだったんだ。家庭内暴力も無ければ、絶縁されることもない。オリバーツイストを読んだからって孤児の気持ちが分かると思うなよ?それと一緒さ。」

 

貧困研究をやっていて感じたことは、自分に対する罪の意識である。自分が無自覚のうちに誰かを抑圧してしまっているような、あの感じ。それと同時に、自分の置かれている社会的環境の後ろめたさ(決して裕福ではないけど、貧乏でもない)があった。また、潜在的恐怖、将来に対する不安が亡霊のようにまとわりついてきた。

 

「明日、父が死んだら学費は払えないし、家のローンも払えない。母は病弱。一気に貧困層へ転落する」や「もしも、就職先が見つからなかったら、どうやって奨学金を返せば良いのだろう?」など。そういった不安に煽られながら、僕は3年続けた。続けた結果、僕はやめた。

 

「もう無理だ。これは僕の手に負えることがらではない。それに時間的制約もあって卒論まで到達しそうにない。先行研究を読むだけで終わってしまう。」

 

ビートルズHey Judeを聴きながら「Don't carry the world up on your shoulders(世界を背負う必要なんてないんだよ)」というワンフレーズに励まされながら今に至る(別に世界を背負うほどの器と才能を持ってるわけじゃないけどさ、僕なりになにか貢献できそうなことはあるさ(雪かきとかさ)。人それぞれ小さなプレッシャーがある)。

 

んで、。徒然と書きましたが、結局僕は村上春樹をやることになりました。

これまで出版された作品は読んだし、エッセイも読んだ。

先行研究のリストは、個人的な趣味で作っていたからある。

批評家で信用出来るのは、加藤典洋という人だけ。

ただ、内田樹の「父のいない文学」というタイトルのエッセイがとても気になる。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。分析のしがいのある仮説。

それと、僕はテキスト論をそこまでやるつもりはない。それよりはむしろ、あまり世間に顔を出さない村上春樹がどのような人であるのかをやりたい。作家研究というところだ。

 

頑張ります。以上。

 

村上春樹、河合隼雄に会いにいく (新潮文庫)

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