「スプートニクの恋人」は、ホント、素晴らしい。

僕たちはいつも、たがいにすれちがっています。相互に理解しあうことは出来ないが、一般的に言って、距離は残る。交差し別れながら、前進を続け、出会いの素晴らしい記憶とともに生き続けるんです。ちょうど二基の人工衛星が、たがいの起動を宇宙空間のなかで追いかけあうようにね。僕たちはふれあい、結びつき、思い出を共有して別れる。この思い出は、僕らの心を温め、勇気づけるものです。良い物語や良い本というのは、そのために存在するんです。

これは村上春樹が、フランスでのインタビューで語ったことです。今日、2年振りに村上春樹の『スプートニクの恋人』を読み直しました。「スプートニク」はロシア語で「旅の連れ」という意味です。タイトルを読んで、そこからどんなことが想像できるのか。僕には、2基の人工衛星がお互いを求め合い、地球の周りをぐるぐるぐる回っているようなそんなイメージが浮かびあがります。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

この小説、僕はとても好きです。主人公の「僕」とすみれとミュウの三人の物語。「僕」はこの小説で、すみれとミュウの二人の関係を追う「目」のような役割を果たしています。いわば、「僕」というフィルターを通した二人の世界が描かれています。僕は最初の描写にもの凄く惹かれました。良き小説というのは、良き書き出しで始まるんですよね。

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。そして勢いをひとつまみもゆるめることなく大洋を吹きわたり、アンコールワットを無慈悲に崩し、インドの森を気の毒な一群の虎のごと熱で焼きつくし、ペルシャの砂漠の砂嵐となってどこかのエキゾチックな城塞都市をまるごとひとつ砂に埋もれさせてしまった。みごとに記念碑的な恋だった。

すばらしい。恋の激しさを見事に描写しています。ここからどんなストーリーが立ち上っていくのだろう?と読者を作品の世界へと引き込ませてくれます。

この本が出版されたのは1999年。この本を系統立てて見てみると

1992年「国境の南、太陽の西
1994年「ねじまき島クロニクル」
1997年「アンダーグラウンド
1998年「約束された場所で」
1999年「スプートニクの恋人

と、なっております。1992年に「国境の南、太陽の西」を書き、その後、「ねじまき島クロニクル」という構造的にも複雑で重厚感のある作品を世に出しました。そして、1995年には阪神淡路大震災がありオウム真理教のテロがあった。その二つの事件は村上春樹にもかなりの衝撃を与えたようでした。彼は、小説家としての責任、物語に対する社会的責任を強く抱くことになったと語っています。「アンダーグラウンド」というノンフィクション本(素晴らしい本です)を出版し、その後、信者達のインタビューをもとに書いた「約束された場所で」。彼はオウムが作り出した稚拙な物語に人々が吸い込まれていってしまった事について、強い責任感を感じているようでした。つまり、小説家が、被害者(信者もある意味では被害者)や、稚拙な物語に吸い込まれ得る人々に対してどのような物語を提供できるのだろうか?と。最近では、ネット上で歴史観を巡る物語が人々を吸収しているように思います。彼らは新大久保に行って破滅的なデモを行い、人々を傷つけています。とても危険性を孕んでいます。それに対抗し得る物語は、小説家でなくても、人々が作り出さなければならないように思います。ネットを開けば色々な人たちが自分の人生について語っています。バックパックをしたいと思ったら、もうすでにそれをやり終えた人たちがネットにいます。あるいは、海外や田舎での生活を書いてる人もいます。複数の人生の物語があり、それを選び取ることができる。物語というのは、そういった意味でとても大切なものだろうと、僕は思っています。人々はこれから、どんな物語を作るのだろうか?と、興味があります。

話を戻します。

そんな社会状況と村上春樹自信の変化を経た後に出版された本が「スプートニクの恋人」でした。この本の良さは、ストーリーの素晴らしさにあります。読者を世界へ引き込ませる絶妙なテンポや比喩があります。村上春樹の作品でおなじみの「あちら側の世界」と「こちら側の世界」を行ったり来たりしています。そんな作品です。

ノルウェイの森」でも、向こう側の世界とこちら側の世界があったでしょう。向こう側の世界は京都の山奥にある精神病の施設で、「僕」がいる東京の世界がこちら側の世界。そういう二つの世界の相関関係というのは、僕にとってはすごく大きなテーマで、多かれ少なかれ「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も典型的にそうだし、「ねじまき島クロニクル」もそう。「スプートニクの恋人」は小さい本だけに、それがいつもより明確に出てしまったのかもしれない。

この作品は、村上春樹の全作品の中でも大きな転換点の一つであるような気がします。この作品では、文体のネジを徹底的に絞り出し、文体が物語をどのように引きつけるかに興味があったと、インタビューで答えています。確かに、その後に出版された小説は「神の子どもたちはみな踊る」ではすべて三人称だし、「海辺のカフカ」も半分が三人称。そして、「1Q84」も、3人称で書かれています。小さな小説から大きな総合小説への転換点がこの「スプートニクの恋人」であった、と僕は思います。

あーだこーだ書いてしまいましたが、僕はこの小説、すごい好きです。 
源氏物語のような、生きてるのか死んでるのかよく分からない小説なんですよね。不明な点が数多く残り、そのせいで、逆に読者を2度3度読まさせる小説です。これは、答えが提示されている小説を僕があまり好まないのもあるかもしれません。

一回、読んで終わりになってしまうから。一回、読んで謎が多く残るものが良い。それに、その謎に何か特別な意味が込められていると思える小説であればさらに良い。そんな作品が僕は好きですし、この「スプートニクの恋人」はそういった小説群の一つであると僕は思います。

※インタビューの引用は「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」と「村上春樹河合隼雄に会いに行く」からさせていただきました。

さっきから、カナブンが窓ガラスにバチバチ当たって跳ね返ってるんだけど、これはなにか意味があるのかな?

あと、ビニール袋の中で何かがガサガサやってるんだけど、邪悪なものでもいるんだろうか。