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夏目漱石について書いたら村上春樹になった。

夏目漱石から村上龍そして村上春樹

夏目漱石がなんだか懐かしくなって、本棚から「行人」「坊ちゃん」「三四郎」「明暗」などなどを引っ張り出して読み直しています。もちろん時間的な制約(卒論がポンコツなので)があるので、一章なら一章、三章なら三章とつまみ読み程度です。僕は一年の時に「漱石から日本文学を体系的に読んでみようか」となって、漱石の作品を買ったんです。買って読んでみたんですが「ソウセキハヨクワカラナイ」となり投げ出し、ポストモダン文学にひょいと飛んで行ってしまったわけです。

んで、4年になり魚の骨が喉の奥の方で引っかかってるような感じになりまして、読み直すことにしました。僕は漱石を文体面から読むことにしました。彼の文体の特徴は、まず「環境」を徹底的に描くことです。そして、その「環境」の中に人間をホイホイ投げ入れてどんな動き方をするのかを見ているような気がします。その「環境」ってなんなのだろうと考えますと「家制度」に行き着きました。家長の父親がいて、長男、次男、三男、そして母親と家の中に階級を持ち込んだあの家制度です。で、主人公の年齢や家族の位置づけを見ていると「三男」だったり「末っ子」が多いなぁと。彼らは、家制度の中で権限を剥奪されてしまった人たちです。つまり、漱石というのは遺産相続権を剥奪されてしまった人たちの葛藤を描いているわけです。たとえ「長男」であったとしても、「家制度」という「環境」に適合できず、酒を飲んだり、ダラダラしていてり、つまり、長男の義務を全うしていません。「こころ」に出てくる「先生」もいわば長男の義務から逃げ出したような人間ですよね。

もう一つ、漱石が作り出した文体には特徴があります。それは「原因」と「結果」を徹底的に書くということです。その「原因」は「家制度」であり、「結果」は「人間」です。家制度が原因で、その結果、人間が葛藤する。と言った感じです。そんなの当たり前だよなぁという感じがしますが、漱石は「現実を現実以上に描いている」ような気がします。彼の小説の中にはいわゆる「非現実的」なことは起こりません。そんなことをしてしまったら小説が成り立たなくなるからです。彼はあくまで日常レベルの葛藤を描きたかったわけですから。非合理的なことに悩んでいたら、メインの「遺産相続」の話に繋がりませんよね。幽霊が出てきたから、遺産どうしようか、なんてことは説明が出来ないわけです。だからまあ、彼は日常レベルの葛藤を描くために「非合理性」と「非現実」は書かなかった。

漱石の作り出した文体は、その後の日本文学のメインストリームになりました。「環境」を描きその中の「人間」はどんな動き方をするのか、という小説的手法ですね。

最近だと「村上龍」はメインストリームの中で頑張ってるような気がします。

夏目漱石から連綿と続くメインストリームを維持している作家がいる中で、日本でもポストモダンという文学が生まれました。近代小説の手法をめちゃくちゃに解体し、「非現実」「非合理」をどんどん取り入れていくのがポストモダンです。

「朝起きてポストを確認したら500万円入っていた」

こんなのを小説に書いてしまったら「んなことあるわけないよな」と、夏目漱石的モダン文学が好きな読者は投げ出してしまいます。現実はそんなに上手くいかないんだ、と。でも、こういう偶然性というのは現実では起こり得ることです。朝起きてベッドから起き上がると、隣に裸の女の子が寝ていた。「?」ということもありえますし、乗っていたジャンボ機が行方不明になったり、村人がゴッソリ消えたりと、そういう奇妙なことは現実で起こりますよね。ポストモダン文学というのは、「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、「小説は事実より奇妙なり」を目指しているのだろうと思います。でも、僕からしたら、これは「プレモダン」の復活なんですよね。モダン文学以前の物語の復活とでも言いましょうか。

源氏物語」「雨月物語」「とりかへばや」などを読んでいると、非合理的な、非現実的なことがめちゃくちゃ起こってるんですよね。ひょいひょいと「あちら側」に行っては「こちら側」に帰ってくる。黄泉の世界に行っては、現実の世界に帰ってくる。漱石は、「あちら側」の世界を徹底的に排除し「こちら側」だけで勝負しようと、思ったわけですね。で、これがあまりにも文学的にも文体的にも確立され過ぎちゃったから、行き詰まり、どうしようとなったわけです。モダン文学って制約がものすごく強いですし、描けるものも限られてしまう。そこで、「プレモダン」の復活というわけです。

さて「こちら側の世界」と「あちら側の世界」を行ったり来たりしてる作家で、いま世界的に有名なのは、村上春樹です。彼は「プレモダン」的な物語を書いてるわけですが、実はその中身は違っています。いわゆる「プレモダン」というのは、霊的なもの、神様や、先祖そういったものから導かれるわけです。

「来年の春に、天国に連れて行ってあげる」と幽霊に言われ、のそのそと主人公が霊的なものに導かれて天国に行く、といったように。しかし、春樹文学は外発的誘導のみならず内発的誘導をも描いているんです。

「僕は君と寝ることになっている。だから、寝るんだ(ダンス・ダンス・ダンス)」とか「なんか、四国に行った方が良い感じがする(海辺のカフカ)」とか。

内発的偶然が起こって、物語がどんどん加速していっている。でも、こういうのってモダン文学にどっぷり浸かってる人には良くわからないし、理解も出来ないし、「現実的にありえない」よなってなる。

バーでお酒を飲んでいたら、女の子が話しかけてきて、そのままベッドに入ってセックスをし、次の日の朝、女の子がいなくなってしまった。

そんな上手いこと、あるわけないな、と思ったらたぶん、春樹文学は合わないでしょう。とてもストレスになりますから。非合理性、非現実を受け入れられる人が、読めば、なるほどとなんですが…。

この辺で筆を下ろしたいと思います。

こゝろ (角川文庫)

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