「子どもの貧困」を考えてみる

卒論をやっていると憂鬱になります。扱っている題材が「貧困」の問題である以上、仕方のないことではあります。「違う題材を選べば良かったかな?」なんて今更言ってもどうにもならない疑問さえ浮上しています。いや、しかしやらなければなりませんね。

そういえば昨日、僕の友人が6浪を経て大学に入学したという知らせを聞きました。しばらく連絡を取っていなかった(取れなかった)ので、どうしたものかと心配していたのでホッとしています。良かった。

その友人は、僕と浪人時代を共にしていたのですが「経済的な理由」により大学進学を断念しました。どうも親の借金が1500万円ほどあったと聞いています。当時、僕はこのことに衝撃を受けて「僕が大学に行って良いんだろうか」と自問した記憶をいまでも覚えています。大学に入ってからもその疑問は心に残り続けました。なぜ?どうして?僕ではくて彼なのだろう?そういった疑問です。この疑問に答えるべく、僕は「子どもの貧困」をテーマに扱うことになり、そして4年の間、そのことばかり考えています。

彼は、勉強をしながらアルバイトで月20万を稼ぎ、コツコツと教育費を貯めていたそうです。僕には到底持ちえないであろう忍耐力と意志の力強さを感じます。ですが、みんな誰しも彼のようになれるか?と言われれば疑問です。それはほんの一部ですし、多くの貧困者(と言ったら彼に失礼なのですが)は、夢や将来を諦めることが多いようです。しかしながら、どうも彼のようなどん底から這い上がるようなサクセスストーリーは受験産業や映画・自伝によって何度も何度も繰り返し生産されてきたように思います。その結果、「努力すれば私もより良い教育を受け、より良い企業に勤め、より良い人生を送れる」という希望を抱かせるようになりました。2000年代から見てみますと、「リトル・ダンサー」が該当するように思います。

主人公のビリー・エリエットはイギリス北部の炭鉱町に住んでいます。両親は労働者階級で、経済的にも苦しい。エリエットの親は彼をボクサーにしようとしますが、バレエ教室が開かれることを知った彼はそれに参加。そのころがきっかけとなり、彼はダンサーとして成功を手にします。ここで描かれるのは「貧乏であっても能力があり、努力すれば成功する」というストーリーです。

他にも「ドラゴン桜」や「オール1の落ちこぼれ、教師になる」といったものもそうです。

オール1の落ちこぼれ、教師になる (角川文庫)
 

 (これは、本当に素晴らしい本です)

これらは繰り返し繰り返し人々に「努力次第でどうにでもなる」という価値観を与えます。もちろん、どん底から這い上がるストーリーが問題だとは僕は思っていません。ビリー・エリエット君や宮本延春さんの人生を否定することは誰にもできません。ですが、ここで問題としたいのは「誰もが努力すれば、彼らのようになることができる」という価値観を持ってしまったために、その裏に隠された固定化されている両親の社会的地位や階級・経済力に目が向けられにくくなるということです。成功するまでのプロセスには、多くの不平等や不公平が存在しているのにも関わらず「努力が足りない」「怠けている」といった言葉で、貧しい家庭に育った子どもや青年を自己責任に付すというのは、非情ではないだろうか。と僕は思います。それに加えて、制約の中で子どもたちがどのような進路選択をするのかは重要な問題であり、しかも、制約によって進路選択が狭められてしまっていることについて目を向ける必要があると思います。このことについてグラスゴー大学の教授であるアンディ・フォーロングとフレッド・カートメルはこのように述べています。

社会構造上の資源の活用を時に意識的に、時に無意識的におこなうが自分の行動をとりまく状況や利用している資源、活動を妨げている障壁についてその全てを知り得ている人はいない。しかし、通常故人は自分が活用できる資源や自分が直面している障壁について部分的には気付いている。そして、経験したできごとや経歴から自分の人生に十分な意味と一貫性を与えるように、合理化というある種の歪みを付与してしまうことも避けがたくある 「若者と社会変容」p21

そして、子どもたちの生の声を拾い集めた「子どもの貧困と社会的排除」という本にはこのような言及が見られました。

子どもたちはまた、自分の親の経済状況についてかなり自覚的であった。場合によっては、自分自身のニーズや希望を自制することで、親を貧困の影響から守ろうとしている子どももいた。p217

本書の後半には、子どもたちが親の経済状況を自覚し自分の進路を選択していることについて書かれていた。

給付金を受給している子どもたちは、ほかの子どもたちよりも16歳で就職する可能性が高くなるだろうと考えていることであった。

親が貧困世帯であると自覚している子どもは、親に迷惑をかけないようにと自分自身の希望を自制あるいは断念し、家庭に負担を与えない進路を選択する。これは、グラスゴー大学の教授が指摘するところの「直面している障壁を部分的に理解」し「人生を合理化」させようとするものである(自分で書いて置きながら、何を言いたいのかさっぱり分からん)

ざっくばらんに言うと、子どもや青年は親の状況を見て進路や人生を選択する。ということですね。で、そうせざるを得なかった人たちに対して「自己責任」として片づけてしまうのは非情だよね、というこです。ちょっと長くなりました(そうなると読むのがかったるくなる)いつか、続きを書こうかと思います。頭ではわかっているのに、いざ書こうとするとあちこちで論理的飛躍が起こりますね...もうすこし訓練が必要なようです。

 

なんか偉そうになってしまいました。そういうつもりはないんですが...「貧困」ってとてもセンシティブな問題ですから書いている方も、書かれている方も嫌な思いをするんですよね....。

 

研究のためのリスト

刈谷剛彦

大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書)

階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ

ウルリヒ・ベック

危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)

アンディ・ファーロング/フレッド・カートメル

若者と社会変容―リスク社会を生きる

テス・リッジ

子どもの貧困と社会的排除