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「心臓を貫かれて」

 嫌な季節だ。少なくとも、僕にとっては嫌な季節なのだ。二つ前の日記で、クリスマスに関した小説を紹介しておきながら....である。

 今日は、とくに何をするわけでもなく、図書館に行き本を読んだ。いかにしてつまらない時間を消耗させるかが課題だった。いや、あえて時間を無駄にし、ごみ箱に放り投げているのだ。まだ食べられるパンやミルクをゴミ箱に捨てるかのように。いずれにせよ、本当につまらないのだ。

 図書館というのは、いわば高齢者の巣のようになっている。年齢の構成比といえば、老人6割、子ども2割、主婦2割といったところだ。どうして、高齢者は図書館に足を運び、黙々と本を読んでいるだろうか。膨大な知識の蓄積から、一冊の本を手に取り、言葉の世界に入り込んでいく。椅子に腰かけ、本に没頭している彼らは、現実から逃避しているようにも見えた。

 僕もそのうちの一人なのかもしれない。鞄からマイケル・ギルモアの「心臓を貫かれて」を取り出し、ページを捲った。この本は、殺人者ゲイリー・ギルモアに起こった家族の悲劇、失望、絶望、苦しみ、悲しみをモチーフにした作品だ。読んでいる最中に、「なぜ、いま、こんな時期に、こんな本を読んでいるのだろうか?」と自問することになった。でも、読まずにはいられなかった。そこに、何かがあると思うから。そこに、真実の一部があると思うからだ。

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈上〉 (文春文庫)

 

 

心臓を貫かれて〈下〉 (文春文庫)

心臓を貫かれて〈下〉 (文春文庫)

 

  5時になり閉館のチャイムが鳴った。言葉の世界に没頭していた老人やその他の人々が思い思いに立ち上がり、帰っていく。彼らはまるで、ボコボコに殴られたボクサーのように意識が朦朧としているように見えた。ここは、現実なのか?それとも、非現実なのか?ここに私は存在しているのか?それとも、存在なんてしていないのか?

 図書館を出て、僕は駅に行った。ショーウィンドウには、美味しそうなパンが飾られていた。ガラス越しに、テーブルを囲っている人々が、コーヒーを飲みながら、楽しそうに会話をしているのが見えた。温かいパンを口に頬張りつつ。パン屋の隣には、クリスマスツリーが展示されていた。嫌な想いが頭の中をぐるぐるとまわり始めた。そこで、僕は戸惑い、足が止まり、胸が締め付けられるような想いをした。そして、何かの訓示であるかのように、ある一節が僕の頭に浮かんだ。「心臓を貫かれて」の著者、マイケル・ギルモア(殺人者、ゲイリー・ギルモアの弟だ)は、一つの真実を自分に見出して、次のように記述している。

 

「思えば僕はその夜に、自分の家庭を持って幸福を見いだせるかもしれないという最後のチャンスを失ってしまった。そういうことを夢見る心を失い、夢もなしに生き続けることを定められたのだ。今この時点でもし僕にこどもができたなら、僕の父がかつて犯したのと同じ傲慢な過ちを犯してしまうのではないかと恐れる

 

 もちろん、僕とマイケル・ギルモアは違う。でも、彼が自分の中に見出した真実の一部が、僕の一部として生きているような感じがした。僕にとって、無関係に見えるようなことも、きっとどこかで繋がっているのだ。僕も同じ過ちを犯すのではないか、果たして僕はショーウィンドウの内側で楽しそうに会話をしている人々や家族のような生活を送ることができるのだろうか。その不安をどうしても拭うことができなかった。僕には自信がない。おそらく、僕も、負の遺産を相続し、同じことを繰り返すのだろう。見えない暴力によって支配された家族を生み出す「何かが」僕の中にある。それは、かつて付き合っていた恋人との生活を想い起こせば...やめておこう。もう、うんざりだ。僕は前を向いて生きたい。