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グレート・ギャツビー

読書 村上春樹

 僕は、これまでグレート・ギャツビーという作品を「いつか読もう」と本棚に眠らせておいた。あるいは、燻製させていたといってもいいかもしれない。時々、本棚からグレート・ギャツビーを取り出して、最初の何ページかをめくり「まだ、読む時期ではないな」と戻す日々を送る。そして、今年に入り「今こそ読むべき時期だ」と思って読んだ。いったい、何を基準にそんなことを決めているのか?と言われても答えに困るんだけど「自分が読みたくなったら」としか言いようがない。今になって分かることだけど、憂鬱になった時はカフカ『変身』や太宰治人間失格』を読んだし、失恋した時は、『ノルウェイの森』を読んだし、反抗したくなった時は『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ。その時その時の感情に合わせて、適当な書物を手に取ってきた。むしろ、本が「今だぞ」と呼びかけてくる声を聞き取っていたとも言える。現時点では、『グレート・ギャツビー』を読もうと思った時の感情がイマイチ僕には思い出せない。いつか、わかるといいんだけど。

     グレート・ギャツビーは色々な人が翻訳しているが、僕がいま持っているのは村上春樹が翻訳したものである。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 村上春樹は、僕みたいな海外文学のことをあまり詳しく知らない人に「こんなに面白んだよ」ということを教えてくれる。彼の「食欲をそそるような書評」を読んでしまったら、「どんな作品なんだろう?」と思わずにはいられないのだ。

 グレート・ギャツビーのあとがきで、村上春樹はもし「これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な三冊をあげろ」と言われたら、次のように答えると言っている。

この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』と、レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』である。どれも僕の人生(読書家としての人生、作家としての人生)にとっては不可欠な小説だが、どうしても一冊だけにしろと言われたら、僕はやはり迷うことなく『グレート・ギャツビー』を選ぶ。

 そして、村上春樹は『グレート・ギャツビー』を「小説家としての僕にとっての一つの目標となり、定点となり、小説世界における座標の軸となった」「僕は隅から隅まで丁寧に、何度も何度もこの作品を読み返し、多くの部分をほとんど暗記してしまった」と述べている。

 また、村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』では、『グレート・ギャツビー』について次のようにも語る。

 訳しはじめる前は、これは完璧な小説だと思っていたんです。でも一行一行じっくり見ていくと、この本の魔法の力は、その不完全さにあるのだと思いました。前後の脈略のずれた長いセンテンス、設定のある種の過剰さ、登場人物のふるまいに時おり見られる一貫性の欠如。この小説が持っている美しさは、そういうもろもろの不完全さの積み重ねに支えられているんです。あえて言えば、そこにあるのは、不完全であることによって表現しうる、特別な種類の美しさだと言えるかもしれない。

  と、引用してみたものの僕にはさっぱり分からない(泣)。でも村上春樹が「そこまで言うんだったら、凄い作品なんだろうな」と思う。

 実際に『グレート・ギャツビー』を読み始めてみると、「読み終わりたくないなぁ」「一ページ、一ページめくるのが惜しいなあ」という気持ちがしてくる。しかも、ギャツビーはなかなか登場してこないところがなんとも焦らしい。

 ついぞ、93ページになってようやくギャツビーが登場する。スコットフィッツジェラルドのギャツビーの適格な描写に唸らせれ、ついついため息を漏らしてしまう。「いったいどこのポイントで僕はギャツビーという人間の心根や正体を信じられなくなったのか」と考えさせられる。幾つか、ギャツビーに関する描写のポイントがあったはずだが、僕はいつの間にか「ギャツビーという人間が信じられない」ようになってしまった。読者を物語の世界に正確に導く描写というのは、ホント凄いと思う。

     物語を読み進めていくうちに、ギャツビーの正体が徐々に嘘と誠を交えながら明かされ、彼が何を求めていたのかが分かってくる。それも正確に、適格に、寄り道をせず。どことなくノスタルジックな小説であった。いつかまた、再読しようかと思う。

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)

ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック (中公文庫)