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1Q84を社会人になる前に読んでて良かった。

いま、1Q84を読んでいる。社会人になるとまとまって読書の時間が取れないと思うから、いまのうちに読んでおこうと。3月の始め、「これがまとまった文量の本を読めるのは最後かもしれない」と思い、本の選定に時間がかかった。もちろん、社会人になっても読書をするだけの時間はあると思う(さすがにないと困る)。けど、こうしてまとまった時間を取れないかもしれないし、そうなると確実に物語の世界から弾きだされてしまう。前後の文脈に戸惑い、登場人物の系譜がどこかに消え、使われている独特の語彙だって、プロットだって忘れる。長編小説を読むには、まとまった時間が必要なのだ。

 

1Q84のBook3の中盤まで読んだ。青豆と天吾、そしてそこに牛河が登場する。この本はおそらく『アンダーグラウンド』や『約束された場所で』の本を下敷きにしているのかもしれない。二つの著書で、村上春樹は、オウム真理教によって被害を受けた人々をインタビューし、普通の人々の生活を物語として昇華させた。そして、何年か経て、それが1Q84の世界で用いられることとなった。この本は、システムと個人の絶え間なき闘いのように見える。

 

エルサレム賞を受賞した時、村上春樹は有名な一節を口にする。

 

「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」

 

この本ではあらゆる「高い壁」がでてくる。その「高い壁」は宗教であったり、父親であったり、会社であったりする。「高い壁」=「システム」に翻弄されているのは、青豆であり、天吾であり、牛河だ。他にも小さなシステムから大きなシステムまである。小さなシステムはより大きなシステムに組み込まれ、大きなシステムはさらに大きなシステムに組み込まれている。

 

その中で僕がとりわけ関心を抱くのは「高い壁」を前にした「卵」がいかに無力であるかということだ。そして「高い壁」を前にしてもたじろかず、人間としての尊厳を勝ち取り、自分の意思で、自由に動き、考えることを青豆、天吾、牛河は大切にしている。

 

「卵」はもろく弱く、壊れやすい。青豆は「証人会」という宗教を信仰する両親の下で育った。毎週日曜日には、青豆は母親と一緒に「証人会」の布教をしなければならなかった。「もうすぐ終末が訪れます。わたちたちの宗教を信じていれば、終末が訪れても楽園で過ごすことができます」といって。青豆は生まれながらにして、強固で、硬く、高い壁に組み込まれてしまっている。しかし、彼女は10歳の時に「証人会」という強固なシステムに対して挑戦する。両親および親戚から見れば「背教」という形になるのだろうが、彼女は信仰を捨てることによって、人間としての尊厳を勝ち取るのだ。

一方の天吾も別の「高い壁」に組み込まれている。それは父親だった。「高い壁」やシステムは色や形を変えて現れる。天吾の父親はNHKの集金人だった。彼も毎週日曜日になると父親と一緒に集金に行かなければならなかった。彼は周りの普通の子どもたちと同じように日曜日には外で遊んだりしたかった。しかし、父親=「高い壁(子どもにとっては強固はシステムだ)」に組み込まれ、そのようにはできなかった。しかし彼も青豆と同じように父親に対して挑戦し「父さん、僕は毎週日曜日に集金なんかでかけない」と言い放ち、人間としての尊厳を勝ち取る。

 

村上春樹は「高い壁」を前にして無力である「卵」を描く。だから僕は好きだ。

 

「そう、壁がどんな正しかろうとも、その卵がどんな間違っていようとも、私の立ち位置は常に卵の側にあります。何が正しくて何が間違っているか、何かがそれを決めなければならないとしても、それはおそらく時間とか歴史とかいった類のものです。どんな理由があるにせよ、もし壁の側に立って書く作家がいたとしたら、その仕事にどんな価値があるというのでしょう。」

 

「私が今日、皆さんに伝えたいと思っていることは、たった一つだけです。私たちは皆、国家や民族や宗教を越えた、独立した人間という存在なのです。私たちは、“システム”と呼ばれる、高くて硬い壁に直面している壊れやすい卵です。誰がどう見ても、私たちが勝てる希望はありません。壁はあまりに高く、あまりに強く、そしてあまりにも冷たい。しかし、もし私たちが少しでも勝てる希望があるとすれば、それは皆が(自分も他人もが)持つ魂が、かけがえのない、とり替えることができないものであると信じ、そしてその魂を一つにあわせたときの暖かさによってもたらされるものであると信じています。」

 

僕はこれから社会人になる。僕は会社の前にあっては無力であり、会社もより大きな会社の前では無力であり、そしてより強固なシステムの前では無力だ。それでも僕は青豆や天吾のように、自分の尊厳だけは守っていきたいと思う。

ところで、どうして村上春樹は青豆や天吾は毎朝ごはんを食べ、コーヒーを飲み、音楽を聞いたりする普通の日常生活をこと細かく、そして執拗に描写するのだろう?誰かこれについて論じてるものはあるのかな?

 

※「壁と卵」は雑文集p75~より引用しました。

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1