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カート・ヴォネガット「スローターハウス5」

読書 映画

 

 

スローターハウス5 [DVD]

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 カート・ヴォネカットの「スローターハウス5」を読んだ(映画は前に見た)。著者自身の戦争体験を下敷きに書かれているが、あっさりとした文体が印象的だった。主人公のビリー・ピリグリムが時間旅行をして、あらゆる瞬間に飛び、その瞬間瞬間を生きる。時系列はめちゃくちゃで、戦争に放り出されたかと思えば、妻との甘い夜に飛んだりする。

 第一章で著者はこの本についてこんなことを書いている。

「サム、こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本になってしまった。だがそれは、大量殺戮を語る言葉など何ひとつないからなのだ」

  時系列はめちゃくちゃに、ビリーはあらゆる瞬間に飛ばされるが、むしろそう言った混沌さでしか戦争を語ることができなかったのだろう。

 この本の中で誰かが死ぬとき、決まり文句として「そういうものだ」という言葉が添えられる。時計の針を戻すことはもはやできず、起きたことは仕方がないといった諦観が底に流れている。第八章のドレスデンの爆撃のシーンがとても心に残る。ビリー含めアメリカ人捕虜達は、ドレスデンの街に連れて行かれ、労働に従事しているが、イギリス・アメリカ両国軍の爆撃により、被害を受けるとは、なんとも悲劇的である。爆撃のシーンは、こんな風に描写されている。

 ドレスデンが破壊された夜、ビリーは生肉貯蔵庫にいた。頭上では、巨人が足を踏みならすような音がしていた。爆撃機から高性能爆弾が投下されているのだ。巨人たちは足を踏みならし続けた。ーー地上では火の嵐が荒れくるていた。ドレスデンはひとつの巨大な炎と化していた。生あるもの、燃えるものすべてを焼きつくす炎であった。ーーアメリカ人捕虜と警備兵がようやく地上に立った時、空は真っ黒い煙でおおわれていた。太陽は、針の先ほどの怒れる光点であった。そこに見るドレスデンは、鉱物以外に何もない月の表面を思わせた。岩石は熱かった。近隣の人びとはひとり残らず死んでいた。

 そういうものだ。

 でも、本当に「そういうものだ」として片付けてしまってよい問題なのだろうか。その問いは、最後のこの文章によって集約されているように思える。そして、最後のこの文章を読んだ時、ヴォネガットが伝えたかったことが少し理解できたような、そんな気がした。

神よ願わくばわたしに変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ