ポール・オースター『ガラスの街』

 昨日ぼくは、どうしようもなくなって、とあるバーに足を運んだ。そこに行けば、自分が自分になるような感じがするし、またぼくと同じような人達がいるような気がしたからだ。本当は同じではないのかもしれないが。それでも、バーの隅の椅子に腰を下ろすと、自分の居場所ができたような気がした(東京の点のまさに点のような存在)。カクテルを飲み、ビールを飲み、よく分からない焼酎割りを飲んで、見知らぬ人たちと話をした。ある人は自分に知識がないことを恥ずかしかっているように振る舞った。でも、それが正解だ。ぼくも知らないことばかりだし、みんな知らないことばかりだ。知っていることは知っている。知らないことは知らない。それだけのことだ。

 周りの人たちは優しかった。「そんなに卑下することないよ、みんな知らないんだから」と直接的には言わなかったが、声のトーンや話題を変えたりして、彼をフォローした。彼は50過ぎのおっさんだった。とても優しそうな人だ。

 狭いバーに、お客がどんどん入ってきた。一人、また一人と椅子を埋めていった。3人連れの若い女の子は、席が満席で入ることができなかった。また、金髪外人二人と日本人の男も入れなかった。彼らも東京の街のどこかの店の、どこかの椅子に腰を下ろし、居場所を確保したかったのだろう、と思案した。そうじゃないかもしれないが。

 結局、ぼくは終電前に店を出た。そして道を彷徨い歩いた。右に曲がり、左に曲がり、階段を上っては下った。ビルの隙間を抜け、路地裏に入り、タバコを吸った。夜が深まるにつれて、昼の賑わいがまるで嘘であったかのように辺りは静かになった。誰もいなくなった服屋を覗く。マネキン人形が最新の服を身にまとい沈黙している。そびえ立つ真っ暗な百貨店、灯りの消えたホテル、人のいないバスターミナル、無人の駅。この世の終わり。

 僕は鞄の中から本を取り出し、街灯の明かりの下で読む。それは、ポール・オースターの「ガラスの街」だった。この本を手に取ったのは、必然的であるように思えた。居場所はどこにもなく、何者でもなく、複数いる人間のうちの一人に過ぎない自分という存在。夜の街を歩いていて、身に染みる孤独。誰のものでもない街。

 

 この本の主人公もニューヨークの街に翻弄されて、自分が自分ではなくなっていく。街を彷徨い歩き、何かに取り憑かれ、結局、何者でもなくなったいく。住んでいた場所も、頼れる人も、なにもかも失っていく。まさに現代の問題を鋭く捉えた作品だ。自分で居場所を求めなければ、どこにもない。

 東京の街を彷徨い歩き疲れ後、ぼくは無性に家に帰りたくなった。自分が自分で居られる自分の家で、自分の部屋で横になってぐっすり眠りたかった。夜の街を歩いていると、何もかもが懐かしいように思えてきた。本棚に積まれた本のことを思った。小学生の頃から使っている机や椅子のことを思った。家で眠っている家族のことを思った。母は自室でちゃんと寝ているだろうか?

 どこにも寝床を見つけることができず、漫画喫茶に入った。夜のそこは、まさに人生の死とも言えるような場所だった。髪は薄く、ヒゲが伸び、ヨレヨレのシャツを着て、黄ばんだ鞄を背負っている男がフロントに立っていた。「ここが彼らの場所なのか?」と、考えた。多分、そうなのかもしれない。足もロクに伸ばせない、狭い空間で独り、誰とも会わず、誰とも話さず、ただじっと時をやり過ごすこと以外にすることがない人たち。ぼくは想像する。彼らにもきちんとした家があり、家族がいたことを。周りに友人たちがいたことを。その人がその人らしかった頃のことを。

 なにもかも損なわれてしまった。いったいなにがそうさせたのか。外の世界が彼らをそうさせたのか、それとも内なる世界が彼らをそうせてしまったのか。それは僕にもわからなかった。そんなことを考えながら、浅い眠りについた。

ガラスの街 (新潮文庫)

ガラスの街 (新潮文庫)